モンテッソーリの「平和教育」

皆さまこんにちは。
管理者兼看護師の佐藤絢美です。

いつも訪問看護ステーションまりあ・キャンナス日立を支えていただきありがとうございます。
おかげさまで訪問看護を通してたくさんの学びを頂いております。

私事ですが息子が今年から小学生になりました。
どんどん成長していく息子のこと、訪問看護やスタッフと利用者様のこと、最近の色々なニュースのことなどを考えていて、「平和」に思い至ることが多い今日この頃です。

そんな中、以前受講したモンテッソーリ ラ・パーチェ トレーニングコースで「平和教育」というテーマに関して以前書いたレポートを思い出し、読み返してみました。

私が訪問看護ステーションまりあ・キャンナス日立を通じて実現したい世界観がやはりそこにあると思い、皆様に少しでも共有出来たらなと思うのでここに載せさせて頂きます。
少し長文ですが、お時間をいただけると幸いです。

以下、レポートの引用です。


平和教育とは何か、と考えると、「平和でいましょう」「平和は良いことだ」と教えることではないと考えられる。

そして、そもそも平和とは何か、という問題に突き当たる。

ヨハン・ガルトゥングは平和とは「暴力がない状態」と定義し、その暴力を「直接的暴力」「構造的暴力」「文化的暴力」に分類している。

この定義は感覚的にとても受け入れやすいが、「~がない状態」という受動的な定義である。

私は今回の講義を受講し、暴力がない状態に至る能動的な道筋がモンテッソーリ教育に含まれていると感じた。

マリア・モンテッソーリは戦争に関して、「人類が経験するはじめての戦争は、大人と子どもの戦争である」という言葉を残している。

つまり、子どもがやりたいこと、伸ばしたいこと、目を輝かせてワクワクすることを、大人が都合を押しつけて邪魔をしてしまうことが日常に溢れていると指摘しているのである。

危ないからと高いところに昇らせなかったり、ハサミを取り上げたり。一緒に歩くと時間がかかるからと、ベビーカーに乗せたり。急いでるからと、自分でボタンを閉めたいのにやってしまったり。

これらのことを総称し、マリア・モンテッソーリは戦争と言っている。

そのことから考えると、戦争とは「自らの意思で行動が決められない状態」である。

よって、その対義語としての平和は「自らの意思で行動が決定できる状態」であり、結果として「争いがない状態」があるのではないかと考えられた。

こう考えると、平和教育とは「自らやりたいことを出来る状態」へと進む手助けである。

さらには自分だけが平和では本当の意味で平和とは言えず、「他人がやりたいことを邪魔しない、受け入れる能力」を育てていくことも平和教育の大切な点だろう。

この「他者へのやりたいことを受け入れる能力」は言い換えれば「多様性の受容」ということになる。

このことは改めて戦争、諍い、争いごとということを考えると納得がいく。宗教間での相容れない思想は宗教戦争となり、子どもの社会での仲間・仲間外れは度を越せば「いじめ」となる。自分と異なるものへの不寛容は、結果として争いを生んでしまうことが多々ある。

「多様性の受容」は、モンテッソーリ教育においてはコズミックエデュケーションがそれにあたる。

これはものごとを一つの視点からだけではなく、多面的に見る方法を紹介することである。

多面的にものを見るということはつまり世界を伝え、多様性を伝えるということである。

この「多様性の受容」は多面的にみる方法を知るだけでは十分でない。

子どもの「自分は今のままでいいのだと受け入れる自己イメージ」こそが土台になければならない極めて重要な要素である。

「今のままでいい」ということは、何かできるから価値があるのではなく、上手くできない自分も受容できるようになるということであり、ありのままの自分を愛することができるようになるからである。

自分を受け入れられていない状態では他者の多様性を受け入れることはできない。

そしてさらに、「今のままでいい」という感覚から、生きているだけで価値があるという自分のいのちの大切さを知ることができる。

これは相手のいのちや相手の存在に敬意をもち思いやることの前提となる感覚であり、まさに他者の受容、他者を大切にすること、敬意を払うことという平和の前提である。

能動的な平和という視点から考えると「自分は今のままでいいのだと受け入れる自己イメージ」があることは、「自分の意思」をそのまま受け入れ、そして「相手の意思」を尊重し敬意を払うことにつながっていくと考えられる。

さらに、自分の意思、自分のやりたいことを明確にするには「いやだ」「やりたくない」ということを表現できる環境が大切だと考えている。
生まれて間もない子どもを見ていると自分のいやなことに対して泣く、というのがコミュニケーションの始まりだということが分かる。

オムツが湿って気持ち悪い、お腹が空いた、眠い、寒い、そういう不快を感じて助けを求めて泣くことでコミュニケーションが始まり、そこから徐々に自分がやりたいことを発信するようになる。

保育者として大切にしていたいことは「いやだ」という感情もそのまま受け入れる姿勢である。

これは講義中の言葉で言うならば「自己イメージの鏡になる」ということであると解釈している。

保育者が子どもを「今のままでいい」と思うことが、そのまま子ども自身が「自分は今のままでいいのだ」と思うことにつながると考えられるからである。

思ったことを発信してそのまま受け入れてもらえる、「いやだ」という感情も受け入れてもらえるということが、「自分は今のままでいいのだ」という自己肯定につながると考えている。

またモンテッソーリ教育においては「新しい人間」を育てるということに重きが置かれ、これは「おしごと」(これはモンテッソーリ教育の用語で、遊びも含めて目の前でやっていること、を指している)を満足するまでやることを通して人格を形成し、平和を愛する人になること、とされている。

モンテッソーリの教具は子どもの発達に合わせてその体の能力や考え方、感じ方を育てていく。

これは「自らやりたいことが出来る状態」への近道である。

体を動かすことが思ったようにできるようになる、つまり運動の自由を得ること、そして何をするか選べること、つまり選択の自由を得ることは、「自ら選んだことを行動に移すこと」に直結する。

そのことにより、子どもは自分がやりたいことを探し、主体的に選び、積極的に活動に取り組むことができるようになり、結果として意欲・やる気が育つ。また自ら選択したことを行うことで、自らの手・目・頭を精一杯使い、試行錯誤するようになる。

また自ら選んだ「おしごと」を自ら考え解決していく中で、考える力が伸びる。

そして自力で問題を解決できた時、大きな達成感を得ることも大切な要素の一つである。

達成感を土台として自分を誇りに思い、自分を好きになることが出来る。

これは自己に対する基本的信頼感の形成の大きく不可欠な援助となる。

先にも述べたように、自己への基本的信頼感の形成は他者への敬意の土台となるものである。

ここまでは「新しい人間」を育てるということが子どもにおいてどの様に平和教育とつながっていくかということだが、保育者にとって大切なポイントも示している。

「おしごとを満足するまでやることを通して人格を形成する」という分に含まれる。

「満足するまでやる」ということのためには、保育者の慎重な観察が不可欠である。

子どもが今「おしごと」に熱中しているか、もっと伸ばしたいと思っていることは何なのか、これは子どもの行動をつぶさに観察することでしか得られない情報である。

その上で保育者が出来ることは環境を整えることと子どもと環境とを結びつけることしかできない。

正確に言うとその二つに加え「見守ること」が保育者としてできることである。

私は、それ以上の介入はしなくていい、ということではなく、してはいけないことだと考えている。

環境を整え、環境を結びつけた後に、例えば「おしごと」をやることを強要することは、先に挙げた子どもの選択の自由を奪う行為である。

選択の自由を奪ってしまっては意欲や考える力の成長する機会を奪ってしまうことになってしまう。

この時点でも「いやだ」といえる環境はとても大切だ。

言えない環境では「おしごと」を結びつけることが子どもの中では強要されていることと同様になってしまう。

さらには子どもが「おしごと」をしているときに手や口を出さず「見守る」ということがとても大切だと考えている。

失敗しても、どう「おしごと」をしても「見守る」ということは子どもがやることを信じているということの最大の表現であり、子どもを一人の人として見た敬意の表れだと考えている。

そしてこのことは、モンテッソーリの教具(狭義のお仕事)だけではなく、生活のあらゆる場面(広義のお仕事)において大切にしていきたいと考えている。

ここまで大人の役割として「環境を整える」「子どもと環境を結びつける」「自己イメージの鏡になる」の三つを挙げたが、講義にもあったようにもう一つ大人の役割がある。

「人間の模範となる」ことである。

子どもが幸せな大人になるために、私たち大人が幸せに生きていることが一番の模範である。子どもは、大人が働く姿や生きる姿を見て、学び、吸収し、それを取り込む。

具体的には大人が相手の目を見て笑顔で気持ちよく挨拶していれば、その中で育った子どもは目を見て笑顔で気持ちよく挨拶することができるようになる、ということである。

ここで大切だと思っていることは、私たちも昔は子どもだった存在であり、未完成な存在であるということである。

私たち保育者は時に子どもの成長を邪魔してしまうこともある。

その時に、自分たちの姿を見つめ直し、成長していくこと。

それは私たち保育者が幸せであるという模倣であり続けるということとだけでなく、成長するという点でも子どもの模範となるということである。

以上が私の考える平和教育である。

見守り

子どもに関われることは日本の未来を想像し創造できることあり、ワクワクする楽しみが増えることだと感じている。

子ども自身が自分の成長を感じられる様に関われたらと思っている。

そして、その人それぞれの幸せを願い、世界の平和を願っている。

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